コトバのコラム 「コトバ大」山葉のぶゆきの週刊連載コラムです。

第18回: 言葉に責任を持たなくてもいい理由

今回は、少々真面目な回。
さてさて「言葉」という言葉は、もともと「言」と表現されていたんだそう。
それが奈良時代や平安時代に、事実を表す「事」と同じように重く考えられ始めて、何か違うなーとなり、もっと軽い意味を与えるために、木っ端の「端」を足して「言端(ことば)」としたらしい。

また同じ理由で、たくさんある軽いもの、である「葉」や「羽」を足して、「言葉」「言羽」も使われ、その中の「言葉」が今でも採用されてるというわけ。

つまり「言葉」とは、それほど重いものではないはずなのに、重たく感じられる風潮があって、それを正すために生まれたものなんですね。

今の世の中、自分の言葉には責任を持ちなさい、的な教育を上司や親から受けることがありますよね。

でも、軽口も大風呂敷もジョークも嘘も、立派な言葉なんです。

というか、それらを認めたことにより、「言葉」という言葉が生まれた、とも言える。



しかし面白いもので、日本にはこの考え方と真逆とも感じる「言霊」という概念もあります。
これは、言葉に宿る魂的な不思議なパワーのこと。
こう書くと胡散臭い感じもしてしまいますが、万葉集にも記されてる、まあ、古来より信じられてる日本人の心のようなものだと思います。

簡単に言うと、例え軽口であっても良い事を言うと良い事が起こり、悪い事を言うと悪い事が起きる、と。
そこから、言葉には言霊があるのだから、いい加減なことを言ってはダメ。という展開が一般的かと。

でも逆に、良い事を言ったら良い事が起きるわけなんだから、嘘でも適当でも、良い事を言おうよ。とも展開できてしまう(多分、間違っていると思いますが)。

そこで思うに、言葉は完璧に自由でいいのではないかと。

責任が発生するのは、言葉ではなく、行動ですよね。

成績を上げます、売り上げを伸ばします、なんて親や上司から詰め寄られたら、早く終わらせるために簡単に言っちゃいますもんね。

さらに、最も大切なのは、成績や売り上げが伸びたか、ではありません。
最も大切なのは、どれくらいの時間、どんな努力をしたか、ということですよね。
つまり自分の心に決めただけの行動をしたか、ということ。

もし期待されているスポーツ選手が、金メダルを獲ることを誓いながら、結果として獲得できなかったとしても、人生が終わるわけではないし、特に責められることもない。
ただ、言葉どおりにうまくいかなかっただけなんです。

もしかすると言葉は、地図にペンで記した線くらいのものなのかもしれません。

この道を通ろうと思う、くらいの役目。

おおよそ道を外れなければ、いや、別にほとんど道を外れていたとしても、もともと書いた線が見れるのであれば、役割はきっと果たせているんです。
多分ですが。