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言葉が発達したのは、基本的に自分の命や家族の安全を守るためとされています。危険を呼びかけたり、水の在処を伝えたり、あるいは雨乞いをしたり、よその村と何かしらの交渉をしたり、気になる異性にあれこれ言って誘ったり。

確かにこれ全部、安全や繁栄など、命に関わっています。

しかしそのためだけに、言葉はここまで複雑に磨かれてきたのでしょうか?むしろシンプルなほうが誤解も生まれにくいし、命を守れるようにも感じる。

ではなぜ、これほどたくさんの言葉(または表現)が生まれたのか。これは僕の推測ですが、お笑い芸人が言うワードセンス、という感覚が太古の世界にもあって、言葉の使い方のセンスのいい人が認められる傾向にあったのではなかろうかと。



例えば、マンモスの味わいをうまく表現したり、おばさんが作ったツボを新しい言葉で褒めて見せたり。で、このセンス野郎はたいして腕力もないのに、村の人気者だったのではないか。また政治に関係する村の代表者なんかも、みんなと違う言葉を使うことで、知的さや含蓄があるように思われ、権威が保てるなど、お得があったのではないか。

そういえば古代ギリシャや古代ローマには、雄弁家、弁論家、演説家という職種がありました。多くは、哲学者や思想家なんかと被っていて、広場などで、政治的な誘導や問題提議を行なっていたようだけど、もちろん説得力がモノを言う仕事だっただろう。

その、人に聞かせる、人の心を震わせるという技術は、詩学や演劇論とも通じるものがあり、それらのテクニックもやがては活用されます。そうして、弁論や演説という大衆を導く言葉の集合体はひとつの完成形にまとまっていったんだそう。

これがまだ紀元前のこと。この時代にすでに言葉は、生命の維持から別の方向に進んでいることが分かります。

詩や演劇はもっと前からあったわけだから、そっちの例が適してるかもしれないけど。とにかく、芸術としての言葉の進化とまた違った、説得するための進化も古代からあり、これを仕事にしている人はワードセンスを磨く必要があったはず。おそらく内容と同等以上に、そのセンスは力を発揮したと思う。

しかし、このワードセンスというのは、物事の本質とは関係のない、いわばトリックのような存在です。おいしい、という言葉をどれだけ言い変えても、解説をプラスしないのであれば、おいしい以上のことは伝わらない。さらに、どれだけ上手に解説を足したとしても、その味を100%表現することは不可能です。

にも関わらずこれほど進化するということは、それだけ大きな影響力を持つ、ある種便利な、そして危険な存在であるということ。しかも現在は本質と同じくらい情報に価値がある時代です。このワードセンスをどう磨くか、あるいはどう付き合うかで、人生がそこそこ変わってきそうですよね。

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